朝起きて、すぐにテレビをつけた今日。
普段は、テレビを朝からみることはあまりない。
(そんな余裕もないからだけど)
今日は、この長野に、北京オリンピックの聖火がやってきた日。
10年前の長野オリンピック。この時、僕は高校3年生。
関心はあったけど、そこまで意識してはいなかった記憶がある。
シッカリと覚えているのは、スキージャンプ団体の金メダルの時の光景と感動。
ただ、それも、テレビで、だけど。
あれから10年。今の自分は、聖火がいくつもの海を越えてこの日本に、
それも唯一、ここ長野にやってくることの尊さがわかる。
世界がスポーツでひとつになる4年に1度の祭典、オリンピック。
その聖火が、再び、この長野にやってくる。
それは、長野県民としてお祝いしたいなぁと、素直に思っていた。嬉しいことだなぁと。
しかし、朝テレビで流れていた光景は、
まるで興奮の中のサッカー会場のように、物々しく2種類の国旗がたなびく長野市。
どう聞いても穏やかでない、怒号、絶叫が聞こえてくる。
なんだか、やるせなくなって、どうにもせつない気持ちになってテレビを切った。
これ長野なのか?と思った。長野じゃないみたいだった。街の人は見えなかった。
もちろん、これはテレビの中の光景。
現場がどうだったかは、自分の目で見ていないからわからない。街の人も多くいたんだろう。
だけど、歓迎すべき聖火リレーが、こうも穏やかな雰囲気でなかったのは、
様々な問題はあれども、長野に住む者として哀しいことだった。
今日の放送(SaturdayD)の中で、小林夏樹さんが話されていた言葉が印象的だった。
『もし、聖火に心があるんだとしたら、今日のこの光景をどう思っているんでしょうね?
〜でも、全部ひっくるめて、
「これが今の世界の姿なんだ。」と思っているのかもしれませんね』
今の、世界の姿 ・・・か。
そもそも、今回このような光景になったのはなんでだろうか。その問題の根っこ。
そして、今、世界で起こっていること。これまで起きてきたこと。
それを、正しく知ること。
それが、この北京オリンピックで、
自分を含め世界の人々に、少なくとも課されたことのような気がする。
スポーツを応援する以外に。もうひとつ。